八木 さゆり / 早稲田大学経営管理研究科
■広がる言葉のピース
コラムを書くことは案外と難しい。的を射た書き出しに苦闘するからである。この「エビデンス・ベースド・マネンジメント(EBM)」も、一言で何かを尽くし難い授業である。「科学的思考法」を意思決定に活用するスキルを学ぶとシラバスにはあるが、それだけでは表層的なのである。講義を振り返るほど、EBMを説明する言葉のピースは広がる。
講義やレジュメに繰り返し登場するフレーズがある。「この授業はWBSの中心においてはいけない授業」というものだ。発信元は、過去に聴講したN先生の言葉にあろう。講義の中で、その理由はあれこれ列挙されていた。そのいずれにも目を通したが、実のところ何かが合いつつ何かが違うように感じた。講義を受けた学生目線ではこう言い換えたい。「社会人が再び大学の門戸を叩き、学ぶビジネススクールだからこそ、WBSに不可欠な授業」と。
文系出身で、しかも大学から遠ざかった時間的距離が20年余りもある。EBMを通して見たグローバルな社会とエビデンスとの関わりは、学業から離れていた思考回路に新しい電流を流すような新鮮さだった。同時に、実社会での経験があるからこそ、その奥深さの根の意味を見出せる。その知見に気づけたからこそ、「不可欠な授業」と私は位置付けたい。
■恐れ過ぎて、初回プレゼンに挙手
M2として迎えた2023年度は、「ChatGPT」が共通言語として急激に普及した初めての新年度にあたる。AIツールについて、各科目で先生方がどう扱うのかに着目していた。履修申請後の4月8日だっただろうか。EBMの最新シラバスが公開された。学習内容や意義、目的がびっしり書かれた後段に、「この授業におけるAIツール活用に関する方針」が載っていた。AIツールの活用を推奨する一方で、利用の仕方を含めた「Honor Coda」がしっかり明示された。こうした指針は、他の講義で事前に出されていなかった。報道では一部の大学で使用規制したことがニュースとなり、揺れる対応差がまさに時代を象徴した。職場でChatGPTを相手に遊び実験しながら、その長所や短所を肌で感じつつ、規制や排除をしても無意味であることは直感的に分かっていた。それだけに、AIへの指針で俊敏に対応した牧先生はどのようなお人柄なのか。興味本位で初回講義に足を運んだ。
履修申請しながら、EBMの受講そのものに、実は迷っていた。優秀な受講生の中で、ド文系の私には居場所がないのではないかという不安ばかりが募り、初回のみで受講の取り消しも考えていた。にもかかわらず、次週に行う初回の論文プレゼンテーションの担当者を決める段で、シーンと凍り付いた教室内に、思わず「やります!!」と挙手。先ほどまで怯えていた自分とは裏腹な行動に、自身が最も驚きながら、本当の意味でEBMとのスタートラインに立った。
■ピア・エフェクトと魔術
プレゼンは、課題の英語論文を読みこなして、10分程度でその内容を紹介する。初回なので、たたき台となるような、発表プレゼンの前例のようなものがない。イメージがわかない。英語は大学以来のレベルで、統計知識は社内で入門的な統計学の個別指導を受けている程度、科学的実験で使われる回帰分析等は無知に等しいという状況でした。「よくもまぁこれで挙手を」と、ため息が漏れ聞こえそうなほど、怖いもの知らず状態の中、6日間弱での準備が始まった。科学的実験の手法などの参考文献を読み漁り、論文にある数値の意味を理解する作業を繰り返した。猛勉強の数日となった。
論文のテーマはピア・エフェクトで、仲間との関係が学習効果とその後の行動にどのような影響を与えているかというものだった。リサーチ・クエスチョンは何か、どのようなデータセットを使用し、分析の結果で得られる結論は何か、この3点に集中して読み込み、発表当日を迎えた。パワポ資料の完成は講義が始まる1時間前というギリギリ。解釈や意味を間違えて冷笑されるのではないかと、発表が終わるまで生きた心地がしなかった。質疑の内容すら記憶がない。最後に、「わかりやすい発表だった」という言葉をもらい、ようやくほっとできた。
この授業では、心理的安全性を担保するために、学ぶ側を守ろうとしている。ここは、牧先生の魔術が発揮されるところである。授業を大切にする熱量と、時を共にする学生への情熱がベールとなる。牧先生は、発言者の言葉に顔をゆがめない。ドンと受け止めた上でのキャッチボールに否定がない。講義後、先生ご自身も常に、どうすればよかったのかと振り返り、教授法へのブラッシュアップに余念がなく、常にベストを目指されている。プラスの学びの輪が、シラバスからは読み取れない魅力であり、人の心を動かし、ピア・エフェクトをもたらす魔術になるのである。
■一期一会~Team7の仲間
全7週に及ぶ講義のうち、第2週目からTeam7のメンバーが、受講期間中の新しい仲間となった。M2の髙橋且泰さん、M1の浦島春享さん、小舟啓介さん、山本恒久さんの4人。プレゼン発表は自主的にアサインするものだが、Team7は全員が立候補しており、講義後半から毎週のように誰かがプレゼンターだった。グループの空気が温まった頃合いと重なり、メンバーとの濃密な時間を重ねた。(*Team7の写真:6/3最終の講義後に牧先生を囲んだ1枚で、髙橋さんが当日欠席)
メンバーにプレゼンターがいる講義前夜の金曜、深夜に1時間ほどのプレプレゼンを実施。ここでの議論は極めて闊達だった。指摘が飛び交い、不明な箇所はとことん考え合い、気づきや発見がプレゼンのポイント項目となった。当日、メンバーの見違えるほどブラッシュアップされた発表は、同志にエールを送りつつ、見守るような感覚だった。
メンバーと素敵な関係が持てた背景の一つは、講義ラスト2週のトピックスが社会的課題の強いアンコンシャス・バイアスを扱っていたことにある。Team7のうち3人が、人種差別問題、性的マイノリティーの問題を、データから実証する論文を担当した。歴史的な背景を持った社会課題について、エビデンスを示して「差別の立証」をする内容で、極めて重い。通俗的なテーマだからこそ、仲間との議論が功を奏したのである。特に人種差別に関しては、日本に居住する限り、理解の範囲が乏しい点で、5人の知恵の結集が関係性を深めた。
チーム内での気づきの一つは、マイノリティーではない研究者が、マイノリティーへの差別にエビデンスを突きつけていた点だった。社会科学分野の通俗的な課題をデータ分析する際、明らかにした部分は、人々の抱える問題をさらに深くえぐることになるのではないか。例えば、性的マイノリティーは接客業に就きにくいから差別があると示すようなデータ実証を行った場合、科学的な調査が何のためにあるのかを、クローズアップしてその是非を議論すべきである。実証実験で分かったことで、何が社会課題を解決することになるのか。つまり、「やっぱりね」というもので終わらせてはならない。今後、通俗的なエビデンスをテーマにしたリサーチは、ソーシャルイノベーションの観点から、社会変化にどう働きかけができ、それがどう解決の糸口になるかが、本来のあるべき姿であると考える。そのために、問題の本質を見据え、詳細を観察しておくことが必要になる。
露系ユダヤ人の移民で、NYで活躍した画家ベン・シャーン(1898~1969年)は、社会風刺画で知られる。他界する1年前にシャーンは、「リルケ『マルテの手記』より:一行の詩のためには・・・」という線描画による版画集を完成させた。友人だったリルケの小説をモチーフにした作品群で、その題材となった一部をここに添える。
・・・一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうだれた羞じらいを究めねばならぬ。まだ知らぬ国々の道。思いがけぬ邂逅。遠くから近づいて来るのが見える別離。・・・・ (大山定一訳)
■MBAホルダーのノブレス・オブリージュ
全7週に及ぶ講義のラストは、シェアリングエコノミー「Airbnb」のプラットフォーム(PF)上で生じた人種差別だった。Airbnb での人種差別は、潜在的なバイアスが行動に現れたものに等しい。利用者からの「信頼」を得るために排除したのが、匿名性だった。アカデミアの人によるデータ実証が示した通り、Airbnbが行った実名というビジネス上の決定が、意図しない結果(人種差別を引き起こすこと)を明示した。企業がどのような経営姿勢で運営するか。解が一つではないビジネス課題に、授業での討議は闊達に繰り広げられた。
社会課題として語られるバイアスの多くは、長く相関関係で捉えられてきた。そこをエビデンスにより因果関係を当てはめて、課題を明示しただけの論文は、単に実験調査ができただけの意味しか持たない。それは価値があることなのかどうか、常に平行して思考すべきである。それがなければ、感覚的に通説で言われてきたことを、「ほら、明らかになったでしょ」と突きつけただけのものだ。これは結論といえるのか。エビデンスによる立証で終わってはならない。その先に、解決の糸口という井戸を掘り、水を流す水路が必要である。そうでなければ、あまりにも残酷であり、ただ傷口に塩を塗り込むように現実を見せつけるだけだ。
この6月29日、米国の最高裁判所は、大学入試で人種に考慮した「アファーマティブ・アクション」を違憲とする判決を下した。アファーマティブ・アクションは、積極的格差是正措置と訳され、1961年にジョン・F・ケネディ大統領が初めて大統領令で使用したことに始まる。2023年のこの判決では、「学生は人種ではなく、経験に基づく個人として扱わねばならない」という。EBMを通して様々な社会課題を、エビデンスによる分析で論拠されたものを読み、時に授業での討議ではアファーマティブ・アクションの必要性が意見として出された。
改めて、科学的な分析手法に、ただ長けるだけでは意味を示せないのではないか、と問いたい。「バイアス」からえぐる問題を、エビデンスで提示するならば、社会的な責任が問われることを認識すべきである。明示された問題は、長い歴史的な背景があり、バイアスが社会的慣例と結びついているものがほとんどである。だからこそ、問題の本質を分解して、解決への手段をセットにしたナラティブな見方が求められる。極めて、思慮と配慮が必要な領域なのである。
なぜ、EBMという授業を、「社会人が再び大学の門戸を叩き、学ぶビジネススクールだからこそ、WBSに不可欠な授業」と位置づけたのか。それは、社会課題に関するエビデンス分析を扱う場合に、論じる側に問題の本質を見抜き、ナラティブを語る力が必要だからである。EBMは単に、統計的、科学的分析の手法の良し悪しに留まっていたのでは意味がない。ソーシャルイシューは、ビジネスの種にもなる。真を問える目を備えた人材を育む意味で、EBMはいま、ビジネススクールに不可決な授業といえるではないだろうか。
講義ラストで扱った動画「Privilege Explained」は強烈なものだ。スタートラインの違いは人生の縮図である、今の有利な立場は勝ち取ったものではないと、学生に現実を知らせる短い動画だ。大人気なく涙があふれました。
WBSで学べている私、我々。いかに恵まれた境遇にあるのか。その境遇に胡坐をかくのではなく、社会のために、より幸いな社会に貢献できる力に、我々自身がしていかねばならない。新聞記者時分でも常に心がけてきたことでもある。
「ノブレス・オブリージュ」という言葉になるのかもしれない。日本的にいえば、利他の心なのかもしれない。スタートラインの違いを、損か得かで思考するようなMBAホルダーにはならないことを、私は誓います。
次回の更新は8月8日(火)に行います。